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世界遺産としても有名な
ガラパゴス諸島(Islas Galápagos)は、
南米エクアドルの西約900kmの太平洋上に浮かぶ19からなる火山群島。
現在も火山活動が続いている。
Islas Galápagos は「ゾウガメの島」という意味。
正式名称はコロン諸島(Archipiélago de Colón )。
火山活動(ホットスポットの活動)で出来た島で、
各大陸とは隔絶された独自の進化を遂げた固有種が多く存在する。
天敵になるような大型の陸棲哺乳類が存在しない。
チャールズ・ダーウィンが、測量船ビーグル号に乗船し、
「進化論」の着想を得ることになった航海で、
この島にも訪れていることは有名。
ダーウィンは航海の後半、1835年9月から10月までおよそ一ヶ月間滞在。
当時の記録は、彼の『ビーグル号航海記』で読むことが出来る。
ガラパゴスの島々で観察した動物相は、南米での調査の経験と共に、
進化論のヒントとなった。
航海でもっとも印象に残ったことの一つとして、
ガラパゴス諸島の動植物が南米のものによく似ていることを挙げている。
そして諸島滞在時には気づいていなかったが、イギリスに帰国後、
生物の種とは当時信じられていたように不変な物ではなく、
変化しうるのではないかと考えるようになった。
島には彼を記念した研究所「チャールズ・ダーウィン研究所」が1964年に開設され、
現在でも、野生生物の保護・調査に当たっている。
だが、航空路や横断道路が建設されると、
欧米を中心に観光客が訪れるようになり、
環境破壊も深刻に。
今ではダーウィン研究所や国立公園管理事務所の設置、
世界遺産への登録、観光客に対するナチュラリストガイド制度などの
厳重な自然保護対策を講じている。
観光客は、足を洗ってからでないと上陸させないほどの保護体制を取っているが、
未だ存在する入植されたヤギや、近年のエルニーニョ現象など問題もある。
【関連記事】
ガラパゴスの生態系が危ない! 外来種や観光客の影響で【iza!】
阿部 典史(あべ のりふみ、1975年9月7日-2007年10月7日)は、
東京都出身のモーターサイクル・ロードレースレーサー。
エントリーネームはニックネームでもある「Norick Abe(ノリック・アベ)」。
享年32歳。
父はオートレース選手の阿部光雄。
5歳からバイクに乗り、ポケバイ、ミニバイクレースを経験。
15歳で渡米しダートトラック、モトクロスの修行する。
全日本ロードレース選手権フル参戦一年目の1993年、
最高峰クラスの500ccクラスで、史上最年少の18歳でチャンピオン、
500ccクラス最後のチャンピオンとなった。
1994年にはロードレース世界選手権(WGP)日本GPで
ケビン・シュワンツ、マイケル・ドゥーハンらと
苛烈なトップ争いを繰り広げながら、
残り3周で転倒リタイアしてしまうという、
センセーショナルなデビューを飾る。
阿部のパフォーマンスのインパクトは、
バレンティーノ・ロッシがこの阿部の勇姿に憧れ自らを
「ろっしふみ」と名乗ったエピソードが物語っている。
この時点で阿部はホンダ陣営(チームブルーフォックス)の所属だったが、
この時の実力を高く評価したウェイン・レイニーからの強い誘いにより、
シーズン中ながらヤマハ陣営へ異例の移籍を果たす。
当時のヤマハは他社のワークス・マシンに乗っていた
日本人ライダーと契約する前例はなく、
ウェイン・レイニーの強い希望によって実現したといえる。
1995年よりWGPフル参戦。
1996年の世界GP第3戦日本GP(鈴鹿)では、
1982年のスウェーデンGPでの片山敬済以来の日本人ライダーによる500ccクラスの優勝を飾る。
2005年よりスーパーバイク世界選手権に参戦の場を移す。
2007年より13年ぶりに全日本ロードレース選手権(JSB1000クラス)に復帰を果たし、
今期6戦を終え総合3位。
自身のオフィシャルサイトでは10月20日に鈴鹿で行われるレースへの意気込みも記されていたが…。
●阿部 典史オフィシャルサイト
この中には、10/1の日記にこうある。
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レース後、チームオーナーの伊藤巧さんから、26日に奥野正雄くんが亡くなっていたことを伝えられた。
すごくショックだった。奥野くんとは今年初めて知り合ったが、同じ伊藤レーシングのチームメイトだ。
身近なライダーが亡くなるなんて、本当につらい。
SUGOでのレース後は、沼田さんのこともあってバタバタしていて、
奥野くんが入院していた仙台の病院にお見舞いに行けずにいた。
岡山のレース後に行こうと思っていたのだが、こんなことなら何としてでも行くべきだったと後悔している。
岡山の予選では、手島くんが沼田さんと同じように、バックストレートから真っ直ぐにコースアウト
してしまうクラッシュがあった。さすがにヒヤッとして現場に駆けつけたが、
幸い沼田さんの事故後に対策が施されていたので、手島くんは大きなケガをせずに済んだ。
危険なスポーツだということは十分に認識している。その上で、安全性を高めることもできるはずだ。
今回、手島くんが取り返しのつかないことにならずに済んだのも、安全性が向上したことの証。
できることを1つ1つ積み重ねていって、なるべく安全にレースができる環境を作れれば、と思っている。
(2007.10.01)
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安全なレースができる環境作り。その1週間後の死はあまりにも…。
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