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阿部 典史(あべ のりふみ、1975年9月7日-2007年10月7日)は、
東京都出身のモーターサイクル・ロードレースレーサー。
エントリーネームはニックネームでもある「Norick Abe(ノリック・アベ)」。
享年32歳。
父はオートレース選手の阿部光雄。
5歳からバイクに乗り、ポケバイ、ミニバイクレースを経験。
15歳で渡米しダートトラック、モトクロスの修行する。
全日本ロードレース選手権フル参戦一年目の1993年、
最高峰クラスの500ccクラスで、史上最年少の18歳でチャンピオン、
500ccクラス最後のチャンピオンとなった。
1994年にはロードレース世界選手権(WGP)日本GPで
ケビン・シュワンツ、マイケル・ドゥーハンらと
苛烈なトップ争いを繰り広げながら、
残り3周で転倒リタイアしてしまうという、
センセーショナルなデビューを飾る。
阿部のパフォーマンスのインパクトは、
バレンティーノ・ロッシがこの阿部の勇姿に憧れ自らを
「ろっしふみ」と名乗ったエピソードが物語っている。
この時点で阿部はホンダ陣営(チームブルーフォックス)の所属だったが、
この時の実力を高く評価したウェイン・レイニーからの強い誘いにより、
シーズン中ながらヤマハ陣営へ異例の移籍を果たす。
当時のヤマハは他社のワークス・マシンに乗っていた
日本人ライダーと契約する前例はなく、
ウェイン・レイニーの強い希望によって実現したといえる。
1995年よりWGPフル参戦。
1996年の世界GP第3戦日本GP(鈴鹿)では、
1982年のスウェーデンGPでの片山敬済以来の日本人ライダーによる500ccクラスの優勝を飾る。
2005年よりスーパーバイク世界選手権に参戦の場を移す。
2007年より13年ぶりに全日本ロードレース選手権(JSB1000クラス)に復帰を果たし、
今期6戦を終え総合3位。
自身のオフィシャルサイトでは10月20日に鈴鹿で行われるレースへの意気込みも記されていたが…。
●阿部 典史オフィシャルサイト
この中には、10/1の日記にこうある。
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レース後、チームオーナーの伊藤巧さんから、26日に奥野正雄くんが亡くなっていたことを伝えられた。
すごくショックだった。奥野くんとは今年初めて知り合ったが、同じ伊藤レーシングのチームメイトだ。
身近なライダーが亡くなるなんて、本当につらい。
SUGOでのレース後は、沼田さんのこともあってバタバタしていて、
奥野くんが入院していた仙台の病院にお見舞いに行けずにいた。
岡山のレース後に行こうと思っていたのだが、こんなことなら何としてでも行くべきだったと後悔している。
岡山の予選では、手島くんが沼田さんと同じように、バックストレートから真っ直ぐにコースアウト
してしまうクラッシュがあった。さすがにヒヤッとして現場に駆けつけたが、
幸い沼田さんの事故後に対策が施されていたので、手島くんは大きなケガをせずに済んだ。
危険なスポーツだということは十分に認識している。その上で、安全性を高めることもできるはずだ。
今回、手島くんが取り返しのつかないことにならずに済んだのも、安全性が向上したことの証。
できることを1つ1つ積み重ねていって、なるべく安全にレースができる環境を作れれば、と思っている。
(2007.10.01)
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安全なレースができる環境作り。その1週間後の死はあまりにも…。
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